2012年1月 2日 (月)

太い注射の思い出

 税理士と顧問先とのマッチングを業としているビスカスという会社が運営しているホームページのブログ掲載ページから「ココログ」に引っ越してきた。ビスカスはホームページをリニューアルするのに伴い、平成23年12月31日をもって、ホームページ上の税理士の書いたブログ掲載を取りやめるということで、ビスカスから「ココログ」を推奨され、「ココログ」への引っ越しと相成った。ビスカスという会社は、今までの既存の顧問税理士に不満を抱いている顧問先を掘り出してきては、ビスカス会員の税理士に紹介してくれる。ビスカスのコーディネイターが、既存の顧問税理士に不満を抱いている顧問先とビスカス会員の税理士との顧問契約のお見合いをセッティングしてくれ、両者の相性が合致して、新たな顧問契約成立となれば、ビスカス会員の税理士は中を取り持ってくれたビスカスに、紹介手数料を支払うことになる。ビスカスが、どうやって既存の顧問税理士に不満を抱いている顧問先を掘り出してくるのかその方法は、わからない。顧問先紹介会社に頼らなければ、関与先を増やせないとは、私に魅力がないからであり、ビスカスは私にとっては、重宝な存在である。

 顧問先との電話の応対、細かな領収証や預金通帳の入力業務、書類の整理に追われ、税法との整合性に頭を悩ましていると、週末は無性に、創造的なことをしたくなってくる。週末、ちょっとしたブログの文章を作ることが、私にとっては唯一の創造的なことであり、私の感受性にみがきをかける一種のカンフル剤なのである。ちょっとしたブログを書くことが、はたして創造的なことか疑問が残るが。

 税務ネタ、経営ネタも書きたいが、もろもろの雑務に追われ、細かな金額のパズルに明け暮れていると、平日の夜は専門書へ目を通すのがおっくうになり、結局は新聞か軽い小説を読むことにとどまってしまい、週末書くブログのネタは、税務ネタ、経営ネタではなく、もっぱら私の少年時代の回想録になってしまう。

 今も、少年時代に思いを馳せた。小学校2年生ころの記憶であろうか。海岸に育った私は、全く好き嫌いがなかった。伯母の家に泊まったとき、夕飯に、トシル(アワビの肝・内臓)を塩漬けにしたものが出て来た。小学生のころから、下手物食いだった私は、大きめのトシルを一つにしておけばいいものを、うまいと思って、二つ食べてしまった。ヒモの部分がまた美味である。私は、その夜、その塩漬けのトシルにあたって、ひどい下痢となってしまった。海岸の古い木造の民家は、母屋の外に、風呂とトイレが別棟で建っていた。ちょうど、真冬の真っ盛り、寒風吹きすさぶ夜、防波堤のそばの母屋を出て、外のトイレに通わざるを得なかった。子供には、トシル二つは多すぎたのか、多少、鮮度に問題があったのかもしれない。

 翌日、伯母が近くの診療所まで連れて行ってくれた。近くと行っても、田舎のこと、バスで20分ぐらいである。ドクターはとてもやさしかったが、太い注射の外見に恐れおののいた。太い容器の注射が、いかにも痛そうに見え、思わず涙ぐんでしまった。太い容器の注射に恐れおののいたが、はじめて腕にゴムの管をまかれ、看護師さんから打たれたその太い容器の注射は、そんなに痛くなかった。若いドクターの「大丈夫だよ」という言葉通りであった。

 トシルは、アワビの肝だけあって、濃厚で確かにうまい。アワビの身を貝殻からとって、トシルだけを残し、トシルを釣り針につけ、テグスの釣り糸を海中に落とすと、すぐに大物の魚が食らいつく。それ以後、上記のことがトラウマとなり、一度にトシルを食べるのは、半分か一つと決めている。

2011年12月25日 (日)

思い違い

 週1回は、ブログを書きたい。週1回ブログを書かないと、自分の感受性がそこなわれるのではないかという危惧におそわれ、文章能力もみがきたいのにみがかれないのではという考えにおちいる。
 事務所の窓から見えるケヤキの木は、すっかり黄色くなった葉を散らしはじめ、だんだん葉がなくなり、枝だけになりつつあるが、その根本にはしっかりと新しい芽吹きが感じられる。ブログを書かないと、私の感受性も冬のケヤキの木のように葉を散らし、枝だけの裸の木になってしまうという大変なあせりがあるのかもしれない。

 しかし、年末の忙しさにかまけていると、ちょっとしたブログの文章を書くのにも窮してしまう。気持ちがささくれ立ち、心に余裕がないからかもしれない。

 あるベンダーの電子納税用のソフトを使って、今まで顧問先のパソコンでダイレクト納付をしてきた。その電子納税用のソフトは、給与ソフトのデータを簡単に連動させることができ、その連動させた源泉所得税のデータを簡単に電子納税することができる。 私は、あるベンダーのこの電子納税用のソフトを使わないと、源泉所得税のダイレクト納付ができないものと思い込んでしまっていた。顧問先のパソコンではないと、電子納税ができないものと思い違いをしてしまったのである。

 諸兄のブログを読んでいて、単に国税庁のe-TAXのホームページにアクセスして、源泉所得税のデータを手打ちすれば、何のことはないことに気がついた。ベンダーのソフトだけを信じ込み、ベンダーのソフトだけに頼って、ごく当たり前のことに気がつかない自分のばかさ加減にあきれ果てた。

 12月16日の金曜日から、慌てて、国税庁のホームページにアクセスして、「国税ダイレクト方式電子納税依頼書兼国税ダイレクト方式電子納税届出書」に、顧問先の預金の口座番号を記入しては、「早く銀行印を押して、管轄税務署に送ってください」と、何かにとりつかれたように顧問先にメールないしファックスをし続けた。

 銀行や信用金庫の金融機関によっては、休日・祝日を除き20日間で、電子納税の自動引き落としに応じてくれる。1月20日の源泉所得税の納期特例のさらに特例の最終納付日までに、いくつの顧問先のダイレクト納付が間に合うのか、年末の忙しさの中で慌ててやった私の上記行為が徒労に終わるのか、この年末の忙しさを一人でますます忙しくして、顧問先に迷惑をかけ、いずれにしても自分のばかさ加減を痛感した出来事だった。

2011年12月19日 (月)

カニ釣り

 毎週、土曜日か日曜日、過去の回想に基づく自然ネタのブログを書くことが、週1回の私にとっての楽しみになっている。税務ネタ、経営ネタも書きたいが、普段、実務に追われ、税務・経営に関する読書が少しおろそかになっている感があり、どうにも筆が進まない。結局は、少年時代、海岸や野山を駆け回った自然ネタとなってしまう。ここ3~4週間は、忙しさにかまけ、ブログの内容の質も量も、低下した。付け焼き刃で、時間もかけず、それほど吟味もしないで書いた文章は、どうしても内容が稚拙なものになり、人の心に響かないものになってしまう。昨日の日曜日、ブログを書くつもりが、結局、今日の月曜日を迎えてしまった。窓に映るケヤキの木は、濃い緑色の葉だったのに、今はすっかり真っ黄色になってしまっている。季節は、刻一刻と真冬に近づいている。

 先週のニジマス釣りに続き、今日も幼き日のカニ釣りに、思い出を追った。小学校の2年生ごろだったろうか、夜、重茂半島の漁港から、普段はイカ釣りに使う漁船に、父とともに乗り込んだ。沖に向かう漁船の集魚灯に、頑強な顎と角を持つミヤマクワガタやノコギリクワガタのオスが集まる。太平洋を見下ろす月山のいただきから、集魚灯をともす漁船を目にすると、漁り火に映るのであろう。月山から見渡す漁り火は、幻想的で郷愁を誘うであろう。

 沖にたどり着くと、サバ一本を丸ごと目の粗い網の袋に入れて、海の底までテグスを垂らす。10分後、テグスを引き上げる。サバ一本に、ワタリガニが2~3匹食らいついている。ワタリガニは、味噌汁にすると、出汁が出て、美味である。

 漁船のデッキに引き上げたハサミを振りかざした2~3匹のワタリガニがサバ一本に食らいついて群がる様子を見ると、人間の競争社会を彷彿とさせるものがある。小学校低学年の時は、集魚灯の明かりの中で、テグスを引き上げて、ワタリガニを釣るのがとにかく楽しかった。年齢を重ねると、過去の思い出から、考えさせられることが出てくる。

2011年12月11日 (日)

ニジマス釣り

 津波の被害にあった岩手の大槌町、小学校のころは、ニジマスの養殖場にニジマス釣りに家族とたまに出かけた。日だまりの照り返しがきらきらと反射する深緑色の養殖池に、ニジマスがうようよ泳いでいた。今も、大槌町にはニジマスの養殖場はあるのだろうか。
 釣り竿と練り餌を販売所で渡され、養殖池に釣り糸を垂らす。緑色の練り餌には、ニジマスがいつも食べているせいか、どうにも食いつきが悪い。全然、釣れない。
 究極の手段、近くの草むらから、クローバーやオオバコの葉を根こそぎ引き抜き、土の中から出て来たミミズを餌として、釣り針につける。動物性タンパク質に飢えていたニジマスは、おもしろいようにミミズの餌に飛びついた。40センチ以上の大物もおもしろいように釣れた。強い引きの感触が、何ともいえなかった。
 その養殖場で、釣れたニジマスを塩焼きにしてくれた。ミミズの餌をいったん飲み込んだニジマスを、内蔵を取り除いて塩焼きにしてくれるというものの、はたして口にすることができるだろうか。小学校の時の私は、無頓着・無神経で、ただただ釣るのがおもしろく、餌が練り餌であろうがミミズであろうが、気にもとめなかった。帰りの自動車の車中、父が「ミミズを飲み込んだニジマスの塩焼きを食べるのは、どうにも抵抗があった」とぼそっとつぶやいた。

 時は20年以上過ぎて、家族で東京の小平に住むようになった。私の幼き日を思い出し、小平の近くでニジマスの釣堀がある場所をネットで検索したところ、西武秩父線の秩父の手前の横瀬に、ニジマスの釣堀があることが判明した。横瀬駅からニジマスの釣堀場までてくてく歩く。木立が日陰を作った円形の池には、大槌町のニジマスよりも小ぶりのニジマスが悠々と泳いでいた。東京に近いところで育ったニジマスは品がよかった。ミミズの餌をつけることなく、販売所で渡された深緑色の練り餌に、ちゃんと食らいついてきた。幼き日の釣堀でのニジマスの引きの手に伝わる感触がよみがえった。東屋風の調理場で、ニジマスを塩焼きにしてくれた。

 童心に帰った私と父とは、ニジマスの引きの感触に酔いしれた。「あまりたくさん、釣らないでね。持ち帰って食べるのにも、限界があるわよ」という母の現実的な声が聞こえてきた。人間も育った環境・親のしつけで、いろいろな個性が導き出されるように、ニジマスも育った環境で特性が導き出されるものなのかもしれない。

2011年12月 4日 (日)

ドブネズミ

 JR新宿駅の中央線(高尾方面)の12番線のホームに立ち、電車を待っている10分ぐらいの間、向かいのホームの退避スペースに目をやる。退避スペースの中を、30センチはあるだろうか大きな褐色がかった灰色のドブネズミが走り回る姿を目撃することがある。
 今から10年ぐらい前だろうか、新宿駅の改札近くのレストランで、悠然とドブネズミが、レストラン内の床を走り回るのを2~3度目撃した。あの大きなドブネズミを見るだけでも、背中に嫌悪感が走る。

 昔、小学校6年生頃、岩手の田舎の家の居間で、小さなハツカネズミと遭遇したことがあった。畳に手をついていたら、手の甲にハツカネズミが載ってきた。おっかながりの私は、「ぎゃー」と突拍子もない声をあげた。母に、「まだ、小さなネズミじゃないの。そんなにおっかながる必要ないじゃないの。」とたしなめられた。

 もっと小さい時、ネズミ取りのカゴにひっかかった死んだネズミを見たことがある。それが一種のトラウマとなり、私にとってはネズミは嫌悪の対象である。

 今年の夏、自宅の近くのスーパーのレタスの陳列棚に、30センチ級の大きなドブネズミが現れて、びっくりしたとある女性のお客さんが話していた。

 昔、大学生のころ、定食屋に入ったら、カウンターをチャバネゴキブリが素早く往復していた。私は、大きな声で、「ゴキブリがいます。どうにかしてください」と言った。お店の奥さんが素早く雑巾でとらえてくれたが、店主の親父さんからは「他のお客さんがいる前で、そんなこと大きな声で言うものではない」とたしなめられた。アパートの近くににあまり定食屋がなかったので、1ヶ月後、その定食屋に行ったら、たまたま他の客はいなく、つきだしの小鉢の中に死んだチャバネゴキブリが3匹入ってきた。前回の私の言葉に対する親父さんの意趣返しだと思い、その定食屋には行かなくなった。

 今、都会の高層ビルには、ドブネズミと同じくらい大きなクマネズミが増えているという。ドブネズミもクマネズミもゴキブリも、神出鬼没である。ドブネズミやクマネズミ、ゴキブリが飲食店の店主の意思に反して、店内に現れたとしても、軽く受け流し、とがめ立てしてはいけないものかもしれない。

2011年11月27日 (日)

カマキリの卵事件

 小学3年生のころ、虫キチガイだった私は、お腹が膨れあがったオオカマキリの雌を草むらで捕獲した。今では、見るのもさわるのも、躊躇せざるを得ない感覚にとらわれるが、小学6年生のころまでの私は、素手で虫にさわるのもいとわず、俊敏な動きをとる昆虫をいとおしく思い、収集癖があった。中学に入るころになって、その収集癖はぴたりとやんだ。中学生になったら、虫への執着は不思議なくらいなくなった。

 その小学校3年生の秋にとらえたオオカマキリの雌が、クリーム色の虫かごに入れていた小枝に、飴色のやや褐色がかった卵を産んだ。卵を産み終えたオオカマキリの雌はまだ生きていて、子供心に体力を消耗しただろうなと思いつつ、新たに捕らえてきた生きていたコオロギをそのオオカマキリに与えた。お腹が平らになったオオカマキリの雌は、虫かごに入れた黒いコオロギに前足の鎌を振り上げてむしゃぶりついた。私は、思考力停止のまま、残忍なまなざしで、コオロギがオオカマキリにしゃぶり尽くされる光景をながめていた。
 オオカマキリの雌は、交尾が終わった後、雄を共食いすることもあるという。

 私は、コオロギを補給して少し元気になったオオカマキリを、当時住んでいたアパートの2階の物干し場から、1階の庭に向けて放った。見事に羽を広げて、オオカマキリは庭のハコベの草むらに着地した。私は、そのオオカマキリを、当時仲がよかった友達に与えた。友達のところで飼育されたこのオオカマキリは、友達のところの水槽の小枝にまた卵を産んだという。

 クリーム色の虫かごには、焦げ茶色の小枝の先に産み付けられた少し褐色がかった飴色のオオカマキリの卵だけが残った。私の田舎では、この枝に生みつ付けられた飴色のカマキリの卵のことを、「カッコウのキン○○」と呼んでいた。紳士淑女のみんさん、ごめんなさい。カッコウは鳥のカッコウである。なぜ、そういう呼び名がついたのか、その由来はわからない。学術用語では、この飴色のスポンジ状の卵を、卵鞘(らんしょう)とか卵嚢(らんのう)というらしい。

 自然界では、秋にススキや小枝に産み付けられたカマキリの卵は、寒風吹きすさぶススキ野原で一冬を超え、4月から5月にかけて羽化するという。私は、小枝に産み付けられたこの卵が入ったクリーム色の虫かごを、北国の灯油ストーブがこんこんとたかれ、暖かい空気が舞い上がる古いステレオの上に放置した。

 外には霜柱がたち、太平洋の冷え切った風が吹きすさぶ2月のある日の昼間のこと、普段は共稼ぎで働きに出ている母が、たまたま休みをとって、アパートの部屋にいた。体長2~3ミリの前足にちゃんと鎌を持った成虫と姿形は変わらないカマキリの子供が、スポンジ状の卵鞘(らんしょう)の中から、200匹以上、うじゃうじゃと生まれてきたという。母は、例によって、キャーと悲鳴をあげたという。肝を冷やしたと言っていた。

 母は、卵鞘(らんしょう)ごと新聞紙に包んで、ゴミ置き場に持って行ったという。小学校から帰って来た私に見せるため、死骸と化した10匹足らずの証拠品を広告のチラシの上にとって置いてくれた。

 自然界のカマキリは、一つの卵鞘(らんしょう)から数百匹生まれたとしても、カエルや子供の時はアリが天敵となり、その天敵からのがれて、立派な成虫になるのはわずか数匹だという。カマキリの子供は、トビムシやアブラムシを補食するという。

 私の母に、巣であった卵鞘(らんしょう)ごと、新聞紙にくるまれて、ゴミ置き場に捨てられたのだから、「私たち、はかない命だったわね」という子供のカマキリの声が、私の耳をよぎった。

 これも、私の小学生の時の珍事の思い出であるが、人間社会でも似たようなことが起こりうるかもしれない。

2011年11月20日 (日)

鎮魂歌(レクイエム)

 私は3.11の被害甚大な岩手県宮古市出身、今までブログに宮古市で過ごした少年時代の海と山との自然に接した回想録を主として書いてきたが、3.11の大震災に関してはブログで全くふれなかった。少年時代の宮古市の大自然にふれて楽しかったことだけをブログに書いて、3.11の大震災のことをブログに全然書かないことについて、ずいぶん薄情な男だと思われた諸兄も、多かったことだろう。いつかは、今回の大震災のことにはふれなければいけないと心の片隅に絶えずあった。

 私は、中学3年まで宮古市で過ごし、岩手の内陸の盛岡の高校を経て、大学の時から今に至るまで東京の周辺及び東京で暮らしてきた。父が大病を患い、平成8年の夏、親子3人で暮らそうということになり、父と母が宮古市を後にして、小平市に居を定めた。それ以来、15年間、小平市で暮らしている。父は小平市に出てくるまで約61年間宮古市で暮らし、母は岩手の内陸の北上から宮古市の勤務先に赴任して、父と結婚してから約38年間宮古市で暮らしてきた。私は、16歳で宮古市を後にしたが、34歳までは、ゴールデンウィーク、お盆休み、年末年始は必ず帰省していた。父は平成17年の初夏、息を引き取った。

 父は宮古市の重茂半島に生まれ、約40年間地元の漁業協同組合に勤め、漁業協同組合の構成員の漁民の一人として夏にはウニ漁に出て、冬にはアワビ漁に出て、時には監視船に乗り、沿岸漁業を営む漁民がどうしたら豊かな生活が送れるだろうと常に心を砕いていた。漁民の一人として、また漁民の生活改善が頭を駆け巡っていたから、太平洋の波が押し寄せる宮古市の海にはとりわけ思い入れがあり、もし父が生きていて、今回の3.11の大震災のことを知ったら、半狂乱になったであろう。

 私たち親子は、小学校の終わりから、私がギンポを獲った藤の川海岸の近くの山を造成した団地の一軒家に住んでいた。藤の川海岸のそばには、国道45号線をはさんで、ゴルフ場、新鮮な海の幸に凝った調理をほどこした料理を振る舞うレストラン、ホテルがあった。

 今から38年前のこと、小学校6年生の最後のまだ真っ暗な真冬の朝5時ころ、悪ガキだった私は白い息をはきながら藤の川海岸のそばの打ちっ放し専門の緑の網が張り巡らされたシーサイドゴルフ場の周りを歩き、側溝に落ちているゴルフボールを、家で食べ終わったパールライスの袋に拾い集め、家に持ち帰った。40個以上、拾い集めたと思う。立派な窃盗である。38年以上経過しているから、既に時効は成立している。

 私が小学6年生のころ、藤の川団地にはまだ家が建っていない空き地がまだ何カ所かあった。空き地のコンクリートの壁に、軟式野球用のボールやゴルフボールをぶつけ、多少おうとつのある壁にぶつかり変化して戻ってくるボールをグローブですくうのが、私が学校から帰った後の日課であった。ゴルフボールは、やけに弾んだ。団地の空き地のコンクリート壁にぶっつけ、おうとつのある壁へのぶつかり具合で変化して戻ってくるボールをすくう遊びは、打ち寄せては引く藤の川海岸の波を想起させた。

 国道45号線をはさんで、藤の川海岸のそばに建つ打ちっ放し専門のゴルフ場も、そのそばに建つレストランもホテルも、建物を飲み込む大津波に甚大な被害を被ったという。約38年前、小学校の最終学年の時、ゴルフ場の側溝に落ちていたゴルフボールを拾い集め、一種の窃盗を働いたという多少の良心の呵責と自責の念と、そのゴルフ場が誰もが予想だにしなかった大津波によって大きな被害を受けたということが、相互作用となって、私の胸を締めつける。

 今回の大津波で、父方の親戚は幸い、命を落とすことはなかった。少年時代、宮古市で過ごし、宮古市の大自然によって育ててもらった者として、今回の大自然の災害で命を落とした方たちのご冥福を、ただただお祈りするばかりである。

2011年11月13日 (日)

白亜の灯台

 岩手県宮古市重茂半島の魹ヶ崎(とどがさき)は本州最東端の岬である。昔はあの巨大なトドが冬から春にかけてオホーツク海やベーリング海から岩手沿岸にも回遊してきたから、この名がついたということである。もしかすると、昔は、スケトウダラやホッケを追って、トドが三陸海岸まで足を伸ばしていたのかもしれない。
 鉛色した太平洋の荒海が、リアス式海岸の断崖絶壁の茶褐色の岩肌にぶつかり、白い飛沫があがる。その断崖絶壁に白亜の灯台がそびえ立つ。昔、一時期、「喜びも悲しみも幾年月」の原作者夫婦もこの灯台に赴任していたやに聞いたが定かではない。「おいら岬の灯台守は 妻と二人で 沖ゆく舟の 無事を祈って灯をかざす 灯をかざす」という「喜びも悲しみも幾年月」の主題歌が耳をかすめる。「喜びも悲しみも幾年月」の主題歌が耳をかすめるとは、私も古い人間である。

 重茂半島の姉吉という村落から赤松とブナが生い茂る山道を1時間歩くと、白亜の灯台にたどり着く。灯台に向かう道すがら、赤松の影からは晴れた日はおだやかな凪の太平洋がかいま見え、時にはヤマカガシやアオダイショウと遭遇し、秋には灯台に行くのが目的でさほど期待もしていないのに偶然松茸を手に入れることができた。本州最東端であるが、経度の兼ね合いから、日の出が本州で一番というわけではないが、当然朝焼けの真っ赤な日の出の太陽が、海の水平線から昇ってくる。正月の初日の出を魹ヶ崎灯台からおがみたいという人たちは、白い息を吐きながら山道を急ぎ、あるいは灯台近くの入り江にサッパ船をつける。寒風吹きすさぶ鉛色の荒海の水平線から、真っ赤な朝焼けの太陽が昇ってくるコントラスト、天空の雄大さを感じる一瞬である。
 灯台の周りには、ハイマツとハマナスがところどころにはえ、茶褐色の岩肌と植物のの緑色と白い灯台、鉛色の荒海の配色が絵になる。灯台内部のらせん階段をぐるぐると段数を数えながら昇って行くと、太平洋の海原を照らし渡す巨大なレンズ室にたどり着く。「レンズの光は、夜、沖合の船の目印になるんだ。船にとって大切な光なんだ。大切な光を放つレンズが曇るから、レンズには決して手でさわっていけないよ」と灯台守の人がやさしく言った。

 私の小学生のころ、アメリカの小学生が瓶に手紙を入れてコルク栓を閉めたものが、重茂半島の海岸に流れ着いた。当然英語で書かれた「日本の小学生のみなさん、仲良くしましょう」との内容と住所が付されたものだったと記憶している。地元の小学生が返事を書いたという記事が地方紙の新聞の紙面を賑わす。アメリカの海岸から流された手紙入りの瓶が、遠路はるばる海流に乗って、本州最東端の重茂半島の砂浜に打ち寄せられる。どことなく雄大で、ロマンチックである。今度は、「名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子の實一つ」という島崎藤村の詩が、私の頭をかすめる。

 姉吉から灯台に向かう入り口には、ススキも生い茂っていた。そのススキ原の中には、葉先がチマキ状の箱形になっているものが目に着く。幼き日の私には、そのススキの葉の箱形が、江戸時代の文箱の形のように見えて、神様からのお告げのような手紙がその中には入っているのではないかという想像をめぐらした。父が、「中には蜘蛛がいるんだよ」と教えてくれた。虫好きだった幼き日の私は、そのススキの葉先が箱型になったものを、父方の祖母の家に持ち帰り、そのまま祖母の家に放置した。
 後でわかったことだが、実は、チマキ状の箱形の中にはカバキコマチグモという、噛まれると傷口が腫れ上がる毒性を持った蜘蛛が住んでいたのだ。ススキの葉の途中からちょん切り、土間にススキの葉を放置したものだから、怒ったカバキコマチグモは這い出してきて、祖母の額を噛んだという。2~3日で傷口は癒えたが、祖母には悪いことをした。

 また、姉吉から灯台に向かう入り口には、ホオノキ、ケヤキ、ヤマザクラ、コナラ、ミズナラの広葉樹も目についた。新緑のころ、姉吉から灯台に向かう入り口の道に目を落とすと、落とし文の様な筒状に巻かれた葉が落ちていることがあった。この「落とし文」をせっせと作って山道に落とすのがオトシブミという首が奇妙に長いゾウムシに似た甲虫である。ホオノキ、ケヤキ、ヤマザクラ、コナラ、ミズナラの広葉樹の枝の先に、ロールキャベツのように巻かれた揺りかごがぶら下がっていることもある。この揺りかごの中にオトシブミの雌は卵を産み落とし、幼虫は揺りかごの葉を食べて育つという。緻密に巻かれたそのロール状の葉は、指で触ったくらいでは簡単にはくずれない。江戸時代、政治批判など公然と言えないことを記述して道端に落としておいた手紙を「落し文」といったが、この甲虫のロール状に緻密に巻かれた揺りかごが巻いた文に似ていることからこの名前がついたということである。「ホトトギスの落とし文」「落とし文の揺籃」の別名もある。

 ここまで書き進めて行くと、私の頭の中での連想ゲームは、「手紙」という言葉を想起する。しかも、「喜びも悲しみも幾年月」の夫婦愛、アメリカからの海流に乗って届くロマンチシズムをかき立てるコルク栓の瓶の手紙の記述から、最終的には「恋文」・「ラブレター」という連想にたどり着く。

 20代前半、「ラブレター」について、前回のブログに書いた今は著名な精神科医・評論家となった従兄弟と会話したことがあった。従兄弟は、女性に対して、絶対にラブレターを書かないという。その理由は、ラブレターで愛を告白した場合、あるいは付き合って破局した場合、相手の女性の手許に「ラブレター」という物的証拠が残るのがいやだからということである。今や、従兄弟は50冊近い本を上梓している。日頃の読書量から培った、想像力豊かな文章術で、従兄弟は若いときから情緒的な文章もうまかった。名文で女性をしびれさせるのに、彼があえてラブレターを書かないというのはもったいない話だと思った。

 私は、臆面もなく、告白の時も、少し仲良くなった時も、20代・30代のころはよくラブレターを書いた。「恋文」・「ラブレター」という響きにロマンチシズムを感じるからである。しかし、私の文章が、書き出しは情緒的かつあまり重くならないように気をつけるのだが、次第に興が乗ると、なぜ好きなのかを恋々(れんれん)と書き連ね、結局最終的に重いものとなってしまい、相手の女性から返事が返ってくることはなかった。

 今から25 ~26 年前、「サントリーオールド」のコマーシャルが一世を風靡した。小林亜星作曲の「♪ダンダンディランシュリラレ~ン・・・」という哀愁ただよう甘くせつないメロディがバックミュージックとなり、琥珀色のウィスキーの中で氷がしゃりんとはじける音がして、その映像が流れる。その後、スナックを出た別れ際に、部下のOL役の純日本的美人の田中裕子が、かつて上司にしたい男性ナンバーワンの課長役の長塚京三に、

「課長の背中見るの、好きなんです」という。
「やめろよ」と課長がとまどったように言う。
「しばらく見てていいですか」と部下のOLが言う。
「やめろよ」と課長が照れたように言う。雑踏の中、部下のOLが課長の背中を見つめる。
 油井昌由樹の低音の渋い声で「恋は遠い日の花火ではない Old  is  New」というナレーションが流れ、最後、課長役の長塚京三が「イェーィ」と言って片足を曲げてジャンプする。

 今、ユーチューブの動画でかつて見たこのコマーシャルを見ても、胸がほんのり熱くなる。あの頃、私は24~25歳の青二才だったが、情緒的な印象深いコマーシャルだったなと心の隅にとどめている。この30秒のドラマに、胸がキュンとなったり、胸をときめかせたりした諸兄も多かったことだろう。長塚京三と田中裕子がそれぞれ相手役をかえて、続編のコマーシャルがいくつか流れたと記憶している。

 コピーライター小野田隆雄が作ったキャッチコピー「恋は遠い日の花火ではない」の意味を、グーグルで検索してみた。
「恋は、思い出として、思いうかべるだけのモノではない。歳をとっても、まだチャンスはある」
「遠い日の花火...美しい(楽しい)思い出だけがよみがえる。
 恋・・・現実は美しく、楽しいだけではない。いろいろあるのが恋である」
という回答が現れた。

 真夏の夜の夢、三陸海岸の太平洋の海原に浮かぶ漁船から、夜空を彩る打ち上げ花火を放つ。海原を照らしている灯台の灯火のもと、魹ヶ崎の岬から、缶ビール片手に、大自然の中、夜空に舞う色鮮やかな刹那的な花火を見上げる。かつて私が高校1年のころ、高校の現代国語の教科書に載っていた芥川龍之介の『舞踏会』の場面が私の頭をよぎる。
 花火を見終わった後、夜の山道を1時間歩いて、姉吉の民宿まで帰るのはかなりおっくうだから、実現可能性はきわめて乏しいが、意表をつく、斬新なぶっちぎりの企画かもしれない。

2011年11月 5日 (土)

アリジゴクの思い出

 岩手県宮古市重茂半島、私の父が生まれ育ち、勤務先もあった場所である。かれこれ42年前、私が小学2年のころの記憶である。リアス式海岸の断崖絶壁の40年前の半農半漁の村は、狐も現れれば、テンもイタチイタチも出没した。以前ブログアップした松茸狩りをともにした1歳上の従兄弟の家にも、時々、遊びに行った。あるとき、その従兄弟の家の軒下に、大きな狐が死んでいたという。狐は、夏の夜、トウモロコシ畑に現れては、器用に生のトウモロコシの皮を剥いて、まるで人間が食べるようにトウモロコシの実をかじり、その後、かじり終わった芯だけを捨てていくという。近くには、昔、尾っぽの長い大きな狐が住んでいたという言い伝えからきている「尾長森」という地名がある。伯父と従兄弟は、その軒下で死んでいた狐を、雑木林で丁重に葬ったという。

 雑木林と畑に囲まれた一軒家、従兄弟と私とは、畑でナツアカネ(トンボ)を追い、近くの民家の軒下にできているアリジゴクのすり鉢上の巣を見に行った。縁の下のさらさらとした砂地だっと記憶している。そのアリジゴクのすり鉢上の巣に、近くで捕らえたクロヤマアリを落とし込む。すり鉢状の巣から逃れられないアリは、アリジゴクの強力な大顎で体液を吸いとられ、その後、体液を吸い取られた屍(しかばね)の殻は巣穴から放り出される。
 私達は、「おもしろいね」と言いつつ、自然の食物連鎖の神秘に目を輝かせた。愚直で気の弱そうな少年だった私は、実は冷徹で残忍な面を持ち合わせる悪餓鬼だった。

 夏休みになると、今度は、母の実家の祖父母が住んでいた北上夜曲で有名な岩手県北上市に、昆虫採集に行った。そのころはまだ、北上市に吸収合併されずに、和賀郡和賀町字岩崎といっていた。そこには、母の兄の子である同い年の従兄弟がいた。暇さえあれば、児童文学全集や百科事典、その他漫画をはじめありとあらゆる書物を読みふけっていた。私に、宮古の田舎で「カタナギ」(「刀ギ」)と呼んでいる魚(さかな)が実は学名が「ギンポ」であること、夏の夜、白熱灯や蛍光灯の光を目指してゆらゆらと飛んでくる蚊を20倍ぐらい大きくしたような蚊のガリバーのような虫が「ガガンボ」(カトンボ)であることを教えてくれたのも、幼き日より博学であった彼である。昔のお昼の「ベルトクイズQ&Q」というクイズ番組の中で「ブラックホール」という答えを求める最終ステージの多額の賞金を得ることができる問題に対し、回答者が困っているのに、テレビを見ていて彼は難なく正解を導き出した。幼き日の膨大な読書量が知識と想像力の源と糧となり、今、彼は漫画・アニメーション・映画・音楽・文学・美術・サブカルチャー・オタク文化を精神分析の立場から解釈・解析して、大量の著作物を上梓し、「ひきこもり」の第一人者としてニュースステーションやNHKのテレビ番組にも出演して、精神科医・評論家として活躍している。大学時代、手帳を肌身離さず持ち歩いて、思いついたことやひらめいたことや日記を常にメモしていたことが思い出される。幼き日の瞬時を惜しむように活字を追ったことと若き日にひらめきを書き取った手帳のメモが、あらゆる文化に関する膨大な評論の著作を生み出す根源になっているのであろう。いろいろな書物の乱読が、想像力の糧となる。ありとあらゆる書物のストーリーと語彙の記憶が複雑にからみあって、斬新な想像力をかき立て、新たな創造物を紡ぎ出すのであろう。時には、彼は著名な脳科学者と往復書簡をとり交わす約束で、彼が書面を送ったのに著名な脳科学者から返信してもらえず、泪目(なみだめ)になったりする。彼とは、幼き日の小学校の夏休みと春休み、昆虫採集、磯の潮溜まりの海の生き物の採集に興じた。その採集の現場は、今の北上市であったり、私の住んでいた宮古市であったりした。

 従兄弟の家の前は道路をはさんで田んぼ、納屋の裏も田んぼである。田んぼのあぜ道と用水路、一面見渡す限りの田園風景、隣家の境には用水路に通じる小川が流れ、その小川では夜になるとニホンアマガエルがやさしげな鳴き声を披露する。夕方には、ヒグラシの「カナカナ」という鳴き声が郷愁を誘う。

 幼き日の北上の従兄弟の家での夕食後、農機具をしまっておく納屋の裸電球に、イトトンボよりはまだ骨格がしっかりしているスマートな、透明な羽を持つトンボのような虫が飛んできた。
 「これがアリジゴクの成虫のウスバカゲロウだよ」と、今は精神科医となった従兄弟が言った。あのずんぐりむっくりのアリジゴクが、蛹の時期を経て、こんなにスマートな容姿に変身するのかと驚きであった。唯一、クロヤマアリの体液を吸い出した大きな顎だけが、幼虫期のおもかげをとどめていた。海岸の宮古市で幼虫のアリジゴクと出会い、内陸の北上市で成虫のウスバカゲロウと遭遇する、場所の違いと時間のタイムラグから、何か不思議な感覚にとらわれた。ウスバカゲロウは、地方では極楽トンボ、神様トンボという俗称を持っている。

 今度は、蚊のガリバーのガガンボ(カトンボ)が、ゆらゆらと裸電球目指して、飛んできた。ガガンボは、宮古市でも、大人になって阿佐谷のアパートでも、小平の自宅でも出会っている。昔、海の男であった私の父が、早朝のウニ漁やアワビ漁に備えて、夕食後早めに寝る癖がついていて、居間できどころ寝(うたた寝)をしていて、目覚めて半分寝ぼけていた時に、父の顔をガガンボが横切って、父が非常に不機嫌な顔をしたのが思い出された。

 最後に、透明な羽も大きく、胴体も太いグロテスクな容貌をしたヘビトンボが、裸電球に飛んできた。このヘビトンボは、標本にすると羽がやわらかすぎて、羽がすぐ、ぐちゃぐちゃになってしまう。ヘビトンボを補虫網で捕らえた。補虫網の中でのヘビトンボは、バタバタと勢いよく暴れた。ヘビトンボを三角ケースの中に収容しようとすると、「ヘビトンボに噛みつかれると痛いから、気をつけて」と物知りの従兄弟は言った。

 私の最近のブログのパターンとなりつつあるが、例によって私の頭の中の想像で、このウスバカゲロウ・ガガンボ・ヘビトンボが、三者会談を始めた。私は、本当は風景描写・自然描写を描いた後、その描写にからめて人間同士の会話を書きたい。しかし、私の想像力がそこまで育っていない。したがって、人間同士の会話を描きたいという願望はあっても、結局、私の想像の中での虫の会話だったり、鳥の会話になってしまう。まだまだ、読書量・修行が足りない。

ウスバカゲロウ
「私たちは夜、光に集まる、羽が透明である、どことなく似ているという共通点がある。でも私は、幼少期は見てくれが悪いけれど、今はスマートかつシャープになって、あなたたちに比べれば、一番、いい男だろう。ガガンボ君、蚊のように動物の血も吸えず、のらりくらりとただようように飛び、人間にたたき落とされると、粉々になってしまう。ヘビトンボ君は、幼虫の時も成虫になってからも、見た目がグロテスクで、特に、幼虫の時は川ムカデと呼ばれているだろう。それに、ヘビトンボ君は、みさかいなく、誰彼かまわず噛みつく」
ガガンボ
「ウスバカゲロウ君、君は幼少期に比べれば、確かにかっこうよくなったよ。でも、昼間のすいすい飛ぶトンボに比べれば、ひらひらと舞うように飛んで、決して飛び方はうまくないじゃないか。人の飛び方に、けちをつける立場にはないと思うね」
ヘビトンボ
「俺は、確かに見てくれは悪い。でも、俺が幼虫の時は、孫太郎虫(まごたろうむし)と呼ばれ、子供の疳に効く漢方薬になって、人の役にたっている。また、俺は川の上流の水の濁りが一つもない清流で、自慢の大顎で、自ら他の水中昆虫を捕らえて、能動的かつ積極的に生きている。ウスバカゲロウ君の幼虫の時のように、すり鉢状の穴を掘って、アリやダンゴムシを落とし穴に落として、それを捕らえるような姑息な真似はしない。また、ガガンボ君が幼虫の時のように、稲の根を食べたり、他の植物の根を食べて、人間から害虫と呼ばれることもない。俺は、自分の力で正々堂々と生きている。確かに見てくれ・容姿も大事だけれども、読書をたくさんして知性をみがかなければ、どんなハンサムな男だって、底の浅い軽薄な男に見えてくる。女性だって、最初不美人な人だと思っても、話してみて、その人がきらりと光る知性的な一言を発すると、この人は勉学に励んでいる人だとわかって、美人に見えてくるではないか。また、そういう女性は、服装のセンス・コーディネイトからもさりげないはっとするものを持っている」

 確かに、ヘビトンボが言うことに、分(ぶ)がありそうだ。

2011年10月29日 (土)

白鳥の会話

 かれこれ38年前、宮古市の藤の川海岸の近くの団地に住み始めた。藤の川海岸はギンポを捕らえた場所である。そこから重茂半島に向かって車をすべらして5分後、青い橋が印象的な津軽石川に到着する。津軽石川の青い橋のたもとに建つクリーム色という表現が適切か淡いオレンジ色という表現が適切か少し迷う角張った3階部分が展望台のように見える津軽石漁協の建物が、私の少年時代の目にも、田舎の中ではずいぶんモダンに映った。宮古市は本州最東端、津軽石川は鮭の遡上も本州一である。ベーリング海・アラスカ海で3年~4年の修行を積んだ鮭は、生まれ故郷の津軽石川に産卵のために、毎年9月中旬頃から帰ってくる。雄は産卵期が近づくとカギ状に鼻が曲がるので、「南部鼻曲がり鮭」と呼ばれる。川に遡上する鮭を川に入る直前に宮古湾の海で捕らえると、脂(あぶら)がのりきっているが、川の真水に入ると脂が少し落ちて、淡泊な味になる。この南部鼻曲がり鮭を塩引きして、新巻鮭とする。今の時期、宮古市では民家の軒下に、新巻鮭が口に荒縄を通されてつりさげられる。昔、南部の殿様が、こんがりと焼いた新巻鮭の切り身を食べて、身の部分よりも焦げ目の入った皮の部分がうまいから、身はいらないから皮だけでできた鮭はいないのかと所望したそうである。

 津軽石川への鮭の帰省が始まって、少し後の11月頃に、今度はシベリアから北海道の湖沼(こしょう)に立ち寄り小休止した白鳥が、越冬のために、津軽石川に飛来する。その白鳥が、オオハクチョウなのかコハクチョウなのかは、私の目には区別がつかない。

 毎年、1月3日頃、津軽石川では、「鮭祭り」が開催される。寒風が吹きすさび、大漁旗がたなびく特設会場では、南部鼻曲がり鮭のつかみ捕りや即売会、鮭漁見学が催され、暖かいイクラ(腹子)ソバを振る舞う出店が賑わう。その鮭祭りの日は、大勢の人が訪れるから、いつもは橋の周辺にいる白鳥も、少し離れたところで小さくなっている。冬の津軽石川は、宮古湾の海の色と同様に鉛色だ。

 「鮭祭り」も終わり、週末の土日には、食パンを持って、親子連れがマイカーで津軽石川を訪れる。お目当ては、純白な大きなボディと黄色の鼻先と黒いくちばし、やさしげな目を持つ白鳥に、食パンを与えることである。毎日のように、食パンを与えてもらっているせいか、10数羽の白鳥は、人に慣れていて、すぐ近づいて来て、甲高く「コォーコォー」と鳴く。白鳥だけならいいが、白鳥の後ろからは、マガモが白鳥のおこぼれを頂戴しようとついて来る。上空からはカモメ、ウミネコ、カラス、トビ(とんび)が狙っている。近づいてきた白鳥をめがけて食パンを川面(かわも)に投げ入れても、カモメ、ウミネコ、カラス、トビ(とんび)の俊敏さにはかなわない。タッチの差で、急降下してくるトビ(とんび)、カラスに食パンを奪われてしまう。

 北国の週末のやさしい日差しの中、川の真ん中では長旅を終え最後の力をふりしぼり遡上する南部鼻曲がり鮭が川面(かわも)に波しぶきをたて、岸辺 近くにはこちらも長旅を終えた白鳥たちがゆっくりと羽を休めてたたずみ、白鳥たちから少し離れたところでは、つがいの鴛鴦(おしどり)が身を寄せ合って、愛を語りあう。絵になる。

 私が20代の後半、今から20数年前、母がスイスがあこがれの地だというので、年末年始にかけて、主としてスイスを周り、最後にパリに立ち寄るという旅行に出かけた。父は、仕事で同行することが出来なかった。登山列車で登り、冬にしては珍しく晴天に恵まれたユングフラウヨッホの雄大な白銀の景色と、レマン湖の優雅な白鳥の姿が特に印象的であった。

 レマン湖の湖畔に浮かぶように建つシヨン城は、その城の形状と色から、『レマン湖の白鳥』と呼ばれている。そして、そのシヨン城の建つレマン湖には、白鳥が数羽、少し青みがかったエメラルドグリーンの湖面を得意げに泳いでいた。レマン湖の白鳥の多くは渡り鳥ではなく、レマン湖周辺を移動して、夏も過ごす。また、レマン湖から動かない白鳥もいるとのことである。観光客の私達を見ると、すぐに近づいてきた。競争相手もいなくて、レマン湖の白鳥は与えたポテトチップスをついばんだ。レマン湖の白鳥は、コブハクチョウかオオハクチョウで、私の目には、津軽石川の白鳥よりも一回り大きく映った。古城がたたずむエメラルドグリーンの湖面の色と白鳥のコントラスト、こちらも絵になる。

 シベリアのツンドラ地帯やタイガ地帯から北海道の湖沼(こしょう)を経由して津軽石川で越冬して、3月下旬、また北海道の湖沼(こしょう)を経由してシベリアのツンドラ地帯やタイガ地帯に帰って行く津軽石川の白鳥と、レマン湖の白鳥とが相まみえることは、科学的にも物理的にもあり得ない。私の頭の中で、津軽石川の白鳥とレマン湖の白鳥とがもし相まみえたら、どんな会話をするであろうかと想像してみた。スイスの公用語は、ドイツ語・フランス語・イタリア語・ロマーニッシュ語の4カ国語だが、この際無視する。私が、勝手に同時通訳も担当する。

津軽石川の白鳥
  「はじめまして。君たちは渡りもなくて、優雅な生活を送っているね」
レマン湖の白鳥
  「人の庭の芝生は青く見えるものだよ。あなたたちは、人間の相手をして、愛想をふりまかなければいけないのは、越冬地の津軽石川と途中で立ち寄る北海道の湖沼(こしょう)だけだよね。シベリアのツンドラ地帯やタイガ地帯に帰って、子育てするときには、人間の束縛から離れて、のびのびと自由を謳歌できるわけだ。僕たちは、世界各国から来る観光客に四六時中、愛想をふりまかなければいけない。ただ、レマン湖はスイスとフランスにまたがっていて、広さが582キロ平方メートルもあって、一箇所にとどまっているというわけでもないんだ。でも、あなたたちの自由さと環境の変化を思いっきり満喫出来ることにはかなわない」
津軽石川の白鳥
  「自由さはあるかもしれないけれど。シベリアからの片道3000キロ~4000キロの長旅は、なかなかしんどい。津軽石川では、人間から食パンをもらえるけれど、カモメ、ウミネコ、カラス、トビ(とんび)の競争相手がたくさんいて、食パンにありつくのもなかなか至難の業だ」
レマン湖の白鳥
  「競争相手はいないけれど、心のやすらぎを求めて観光に来ている大勢の外国人と接していると、人間への警戒心が薄れて、僕たちが本来持ち続けなければならない野生への回帰の気持ちが遠のいていくのが心配だ。人間に頼って、水面(みなも)に顔を突っ込んで、本来食べるべき水草の葉、茎、根、落ち穂、マコモをついばむのがおっくうになるのも心配だ。人間依存になってしまう」
津軽石川の白鳥
  「我々も、人間から食パンをもらうことを自制しなければ、我々の自由さに制限を加えることになるかもしれないね」

 私の頭の中で、2羽の白鳥の会話はやみそうにない。白鳥は、愛らしい。岸辺に近づいてきた津軽石川の白鳥に食パンを与え、湖畔に近づいてきたレマン湖の白鳥にポテトチップスを与えたい。津軽石川の白鳥が食パンを、レマン湖の白鳥がポテトチップスをおいしそうについばむ姿を見たい。しかし、それは節度を守らないと、自然の摂理にそむくことなのかもしれない。

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