岩手県宮古市重茂半島の魹ヶ崎(とどがさき)は本州最東端の岬である。昔はあの巨大なトドが冬から春にかけてオホーツク海やベーリング海から岩手沿岸にも回遊してきたから、この名がついたということである。もしかすると、昔は、スケトウダラやホッケを追って、トドが三陸海岸まで足を伸ばしていたのかもしれない。
鉛色した太平洋の荒海が、リアス式海岸の断崖絶壁の茶褐色の岩肌にぶつかり、白い飛沫があがる。その断崖絶壁に白亜の灯台がそびえ立つ。昔、一時期、「喜びも悲しみも幾年月」の原作者夫婦もこの灯台に赴任していたやに聞いたが定かではない。「おいら岬の灯台守は 妻と二人で 沖ゆく舟の 無事を祈って灯をかざす 灯をかざす」という「喜びも悲しみも幾年月」の主題歌が耳をかすめる。「喜びも悲しみも幾年月」の主題歌が耳をかすめるとは、私も古い人間である。
重茂半島の姉吉という村落から赤松とブナが生い茂る山道を1時間歩くと、白亜の灯台にたどり着く。灯台に向かう道すがら、赤松の影からは晴れた日はおだやかな凪の太平洋がかいま見え、時にはヤマカガシやアオダイショウと遭遇し、秋には灯台に行くのが目的でさほど期待もしていないのに偶然松茸を手に入れることができた。本州最東端であるが、経度の兼ね合いから、日の出が本州で一番というわけではないが、当然朝焼けの真っ赤な日の出の太陽が、海の水平線から昇ってくる。正月の初日の出を魹ヶ崎灯台からおがみたいという人たちは、白い息を吐きながら山道を急ぎ、あるいは灯台近くの入り江にサッパ船をつける。寒風吹きすさぶ鉛色の荒海の水平線から、真っ赤な朝焼けの太陽が昇ってくるコントラスト、天空の雄大さを感じる一瞬である。
灯台の周りには、ハイマツとハマナスがところどころにはえ、茶褐色の岩肌と植物のの緑色と白い灯台、鉛色の荒海の配色が絵になる。灯台内部のらせん階段をぐるぐると段数を数えながら昇って行くと、太平洋の海原を照らし渡す巨大なレンズ室にたどり着く。「レンズの光は、夜、沖合の船の目印になるんだ。船にとって大切な光なんだ。大切な光を放つレンズが曇るから、レンズには決して手でさわっていけないよ」と灯台守の人がやさしく言った。
私の小学生のころ、アメリカの小学生が瓶に手紙を入れてコルク栓を閉めたものが、重茂半島の海岸に流れ着いた。当然英語で書かれた「日本の小学生のみなさん、仲良くしましょう」との内容と住所が付されたものだったと記憶している。地元の小学生が返事を書いたという記事が地方紙の新聞の紙面を賑わす。アメリカの海岸から流された手紙入りの瓶が、遠路はるばる海流に乗って、本州最東端の重茂半島の砂浜に打ち寄せられる。どことなく雄大で、ロマンチックである。今度は、「名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子の實一つ」という島崎藤村の詩が、私の頭をかすめる。
姉吉から灯台に向かう入り口には、ススキも生い茂っていた。そのススキ原の中には、葉先がチマキ状の箱形になっているものが目に着く。幼き日の私には、そのススキの葉の箱形が、江戸時代の文箱の形のように見えて、神様からのお告げのような手紙がその中には入っているのではないかという想像をめぐらした。父が、「中には蜘蛛がいるんだよ」と教えてくれた。虫好きだった幼き日の私は、そのススキの葉先が箱型になったものを、父方の祖母の家に持ち帰り、そのまま祖母の家に放置した。
後でわかったことだが、実は、チマキ状の箱形の中にはカバキコマチグモという、噛まれると傷口が腫れ上がる毒性を持った蜘蛛が住んでいたのだ。ススキの葉の途中からちょん切り、土間にススキの葉を放置したものだから、怒ったカバキコマチグモは這い出してきて、祖母の額を噛んだという。2~3日で傷口は癒えたが、祖母には悪いことをした。
また、姉吉から灯台に向かう入り口には、ホオノキ、ケヤキ、ヤマザクラ、コナラ、ミズナラの広葉樹も目についた。新緑のころ、姉吉から灯台に向かう入り口の道に目を落とすと、落とし文の様な筒状に巻かれた葉が落ちていることがあった。この「落とし文」をせっせと作って山道に落とすのがオトシブミという首が奇妙に長いゾウムシに似た甲虫である。ホオノキ、ケヤキ、ヤマザクラ、コナラ、ミズナラの広葉樹の枝の先に、ロールキャベツのように巻かれた揺りかごがぶら下がっていることもある。この揺りかごの中にオトシブミの雌は卵を産み落とし、幼虫は揺りかごの葉を食べて育つという。緻密に巻かれたそのロール状の葉は、指で触ったくらいでは簡単にはくずれない。江戸時代、政治批判など公然と言えないことを記述して道端に落としておいた手紙を「落し文」といったが、この甲虫のロール状に緻密に巻かれた揺りかごが巻いた文に似ていることからこの名前がついたということである。「ホトトギスの落とし文」「落とし文の揺籃」の別名もある。
ここまで書き進めて行くと、私の頭の中での連想ゲームは、「手紙」という言葉を想起する。しかも、「喜びも悲しみも幾年月」の夫婦愛、アメリカからの海流に乗って届くロマンチシズムをかき立てるコルク栓の瓶の手紙の記述から、最終的には「恋文」・「ラブレター」という連想にたどり着く。
20代前半、「ラブレター」について、前回のブログに書いた今は著名な精神科医・評論家となった従兄弟と会話したことがあった。従兄弟は、女性に対して、絶対にラブレターを書かないという。その理由は、ラブレターで愛を告白した場合、あるいは付き合って破局した場合、相手の女性の手許に「ラブレター」という物的証拠が残るのがいやだからということである。今や、従兄弟は50冊近い本を上梓している。日頃の読書量から培った、想像力豊かな文章術で、従兄弟は若いときから情緒的な文章もうまかった。名文で女性をしびれさせるのに、彼があえてラブレターを書かないというのはもったいない話だと思った。
私は、臆面もなく、告白の時も、少し仲良くなった時も、20代・30代のころはよくラブレターを書いた。「恋文」・「ラブレター」という響きにロマンチシズムを感じるからである。しかし、私の文章が、書き出しは情緒的かつあまり重くならないように気をつけるのだが、次第に興が乗ると、なぜ好きなのかを恋々(れんれん)と書き連ね、結局最終的に重いものとなってしまい、相手の女性から返事が返ってくることはなかった。
今から25 ~26 年前、「サントリーオールド」のコマーシャルが一世を風靡した。小林亜星作曲の「♪ダンダンディランシュリラレ~ン・・・」という哀愁ただよう甘くせつないメロディがバックミュージックとなり、琥珀色のウィスキーの中で氷がしゃりんとはじける音がして、その映像が流れる。その後、スナックを出た別れ際に、部下のOL役の純日本的美人の田中裕子が、かつて上司にしたい男性ナンバーワンの課長役の長塚京三に、
「課長の背中見るの、好きなんです」という。
「やめろよ」と課長がとまどったように言う。
「しばらく見てていいですか」と部下のOLが言う。
「やめろよ」と課長が照れたように言う。雑踏の中、部下のOLが課長の背中を見つめる。
油井昌由樹の低音の渋い声で「恋は遠い日の花火ではない Old is New」というナレーションが流れ、最後、課長役の長塚京三が「イェーィ」と言って片足を曲げてジャンプする。
今、ユーチューブの動画でかつて見たこのコマーシャルを見ても、胸がほんのり熱くなる。あの頃、私は24~25歳の青二才だったが、情緒的な印象深いコマーシャルだったなと心の隅にとどめている。この30秒のドラマに、胸がキュンとなったり、胸をときめかせたりした諸兄も多かったことだろう。長塚京三と田中裕子がそれぞれ相手役をかえて、続編のコマーシャルがいくつか流れたと記憶している。
コピーライター小野田隆雄が作ったキャッチコピー「恋は遠い日の花火ではない」の意味を、グーグルで検索してみた。
「恋は、思い出として、思いうかべるだけのモノではない。歳をとっても、まだチャンスはある」
「遠い日の花火...美しい(楽しい)思い出だけがよみがえる。
恋・・・現実は美しく、楽しいだけではない。いろいろあるのが恋である」
という回答が現れた。
真夏の夜の夢、三陸海岸の太平洋の海原に浮かぶ漁船から、夜空を彩る打ち上げ花火を放つ。海原を照らしている灯台の灯火のもと、魹ヶ崎の岬から、缶ビール片手に、大自然の中、夜空に舞う色鮮やかな刹那的な花火を見上げる。かつて私が高校1年のころ、高校の現代国語の教科書に載っていた芥川龍之介の『舞踏会』の場面が私の頭をよぎる。
花火を見終わった後、夜の山道を1時間歩いて、姉吉の民宿まで帰るのはかなりおっくうだから、実現可能性はきわめて乏しいが、意表をつく、斬新なぶっちぎりの企画かもしれない。